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若林区
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更新日:2024年11月19日
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江戸時代に藩士の藤田但馬が開墾した藤田新田にある神社。但馬の娘婿山本氏が後を継いだが、子孫の山本三郎兵衛は小田原に大きな屋敷を持ち小田原山本丁の名の起こりとなっている。
江戸時代の碑や大正10年(1921)と銘のある疱瘡神社の碑があるが、この藤田新田一帯は弥生時代の遺跡がある土地でもある。
笹新田と呼ばれる地域にある。江戸時代初期に丸森の佐々家が新田開発をした所で、丸森の次男三男が開墾にあたり足軽を兼ねていた。豊作祈願のために湯殿山神社を勧請したらしい。古い石碑が並んでいる。
かつては熊野神社といい、天台宗の法性寺(ほうしょうじ)が別当だった。
七郷地区の氏神様を合祀して明治42年(1909)に七郷神社と改称し、七郷村の総鎮守となった。江戸時代中期から後期の碑が多く見られる。北側にある荒井不動はかつての法性寺で、明治6年(1873)に七郷小学校が開校したところだ。また、ここの丹波神楽は市の登録文化財として保存されている。
江戸時代初期に勧請されたという。荒浜の守護神として天照大神が祀られ、本殿は明治7年(1874)の建立。明治末期にこの一帯の神社が七郷神社に合祀されたあとも、地元の人々の願いで残された。
文政8年(1824)に建立された石碑が堂に納められている。八大龍王は水神として信仰され、漁や航海の安全が祈願されている。
元来は元禄16年(1703)に霞目の八瀬川に建てられた稲荷社だったが、天保6年(1835)に現在地に移されて浪分神社という名になった。
七郷一帯は標高が低く、昔から津波や洪水の被害が大きかった。慶長16年(1611)の慶長大津波では霞目まで水が押し寄せ、1700人を越える死者を出している。
天保期に、慶長の大津波が二つに分かれて引いた場所に稲荷社を移し、津波よけの神社とした。この神社には、白馬にまたがった海神が大津波を南北に分けて鎮めたという伝説がある。
雷よけを祈願した神社で、昔は雷や稲妻は雨を呼ぶ水神とみなされていた。享保20年(1735)に7日間雷鳴がとどろいて落雷が相次いだため、神社を建てて鎮まるのを祈り、村の鎮守としたのが起源とされる。
長喜城の村社だったが明治43年(1910)に七郷神社に合祀された。今でも季節ごとに地区の祭りが開かれている。
木ノ下の白山神社が戦乱にあった時、本尊をかくまったのがこの地だという。のちに国分氏の家臣が分霊を祀って創建されたという。江戸時代の庚申塔が2基ある。木ノ下白山神社の流鏑馬(やぶさめ)の前には、射手が深沼の海で身を清める習わしがあり、帰りにはこの神社で休憩する決まりだった。
このページは、仙台開府400年を記念して実施した「若林区の魅力発見事業」で平成14年度に製作しました。
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