ホーム > 泉区トップページ > 泉区の紹介 > 泉区のプロフィール > いずみ史跡今昔物語 (目次) > いずみ史跡今昔物語―第6回 小角めぐり 鼻毛橋周辺を歩く
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更新日:2025年1月14日
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今回は小角周辺をご案内します。泉自動車学校前にある橋「鼻毛橋」。なんとも奇妙な名前の橋です。地元の古老に由来を聞くと、取るに足らない鼻にも引っかからないやせた土地にできた橋、鼻水をたらして荷物を担いで上り下りした橋など諸説があります。
それでもこの橋の上から見る泉ケ岳、特に水面に映る泉ケ岳の姿の美しさは格別です。一度ご覧ください。
また、鼻毛橋の西側には中世の小角城や、対岸には貴布禰神社や白藤神社など由緒ある寺社があります。現在、小角の東半分は主要道から外れているため、昔の風情が多く残っています。
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賀茂神社が元禄9年(西暦1696年)塩釜から遷宮された前後に塩釜神社の左宮より遷宮され、貴布禰神社になったとされています。
古内の賀茂神社が京都の賀茂神社(本社)の地形と似た所を選んで建てられたことから、同じように摂社の貴布禰神社も七北田川の上流を選んで建てられたとされています。
移転前の賀茂神社と貴布禰神社は信仰が厚かった「留守氏」の紋でしたが、賀茂神社は伊達氏による古内移転の際に、伊達家の家紋の「三引両紋」に変えられました。
しかし、貴布禰神社の移転に際しては、新たに神殿を作らなかったためか、「留守氏」の紋章がそのまま残されています。
※「貴布禰神社」の禰の偏は、本来「ネ」偏だが、システムの都合上、「示」偏を使用しています。
昔の写真 |
今の写真 |
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貴布禰神社(昭和50年) |
貴布禰神社 |
貴布禰神社(昭和50年) |
貴布禰神社 |
「風土記御用書出」には、ご本尊は石仏立像で、高さが4尺5寸と記載されています。
往古田村麻呂将軍の東征の時に、愛馬の太白号が毒草を食べてこの地で死んだために、同社にお堂を建てて祭ったとされます。
その際将軍の鞭を墓の目印として立てたものが根付いて「白藤」になったという言い伝えが残されています。
昔の写真 |
今の写真 |
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白藤観世音(昭和56年) |
白藤観世音 |
飯石明神(いいいしみょうじん)は、もともと古内鉄右衛門の別荘の中にあったとされています。
子どもの夜泣きに霊験あらたかとされ、祈願するものは祭られている小石を1個借りていって病児の枕元に置き、願いが叶うとお礼に子石を2個にして返したそうです。
このため、小石を生む神社と言われるようになったと伝えられています。
昔の写真 |
今の写真 |
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飯石明神(昭和50年ごろ) |
飯石明神 |
若宮は荒れ宮で気性の激しい神様とされています。
「風土記御用書出」には、古内鉄右衛門様から寄進されたとされています。
国道457号線の整備に伴い、現在は石造りの立派な社が建てられています。
昔の写真 |
今の写真 |
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若宮八幡神社(昭和50年ごろ) |
若宮神社 |
虚空蔵山大満寺は七北田にある山の寺洞雲寺の末寺とされています。
「風土記御用書出」によると、寛正元年(1460)、国分家11代目の盛行の援助を受けて、領主であった古内近江守の帰依によって洞雲寺11世が開山したと伝えられています。
伊達忠宗公の位牌を安置しており、忠宗に従い殉死した岩沼領主、古内主膳重広と追腹した家来の3人の墓があることから、古内家の菩提寺ともなっています。
寺宝として、仙台城下町絵図や古内主膳の奥方である高木氏が奉納したと伝えられる写経などがあります。
梵鐘も奉納されましたが、太平洋戦争の際に供出され、現在の梵鐘は昭和45年に再鋳されたものです。
昔の写真 |
今の写真 |
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大満寺(昭和50年ごろ) |
大満寺 |
仙台城下町絵図(昭和56年) |
大満寺・梵鐘 |
大満寺の本堂を見ながら左に入った奥の小高い山の上に「古内主膳の墓」があります。
主膳は国分家最後の領主である盛重の末子で、幼少の頃は根白石福沢館の高木家で暮らしましたが、成長して古内家の養子に入りました。
後に伊達家初代と2代に仕えましたが、大阪の陣などの戦いでの功績により、伊達家筆頭家老になりました。
また、1万6千石を領して、岩沼城主となりました。
昔の写真 |
今の写真 |
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古内主膳の墓(昭和56年) |
古内主膳と家来の墓 |
白藤観世音近くにあり、竹で編まれた塀を見ながら奥に進むと、廃寺となった千光山観音寺という真言宗の寺院の隣にお堂があります。
本尊は7寸の木像で、小角川東組の人々が祭り、祭日は曼荼羅や仏像などの図幅を掲げて祭っています。
開山は明暦2年(西暦1656年)ごろとされています。
昔の写真 |
今の写真 |
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千手観音堂(昭和54年) |
千手観音堂 |
泉消防署根白石出張所の北側、七北田川と田中川が合流する地点にあり、小岳城ともいわれています。
東西100メートル、南北200メートルの広さがあり、切り立った崖と土塁や水濠が築かれていました。
城主は古内近江長時、古内鉄右衛門と伝えられています。
鉄右衛門は岩沼、宮崎、北根の古内家の総本家とされています。
昔の写真 |
今の写真 |
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小角城跡・土塁(昭和50年ごろ) |
小角城跡 |
小角の窪(久保)に、庚申塔や馬頭観音などが集められた地点があります。
現在は主要道から外れているため、あまり目立ちませんが、昔は根白石からこの窪(久保)を経て実沢の中山道を通り仙台に通じる位置にあり、大切な道標にもなっていました。
昔の写真 |
今の写真 |
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窪石碑群(昭和50年ごろ) |
窪石碑群 |
写真:昔の写真は、元泉市誌編纂委員会副委員長庄司健治氏のコレクション、最近の写真は「いずみまちづくり研究会」からお借りしています
出典:根白石村史、泉市誌、グラフ泉、いずみのふるさと(総集編)、続みーつけた、泉市の文化財、七北田川まるごとガイドブック
泉なつかし写真館では、「泉市誌」(昭和61年11月発行)の編纂(へんさん)に使用された貴重な写真などを使いながら、懐かしく、また、新鮮な泉について紹介しています。また、泉史跡めぐりでは、泉区内にある名所・旧跡を分かりやすく紹介しています。
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