泉区
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更新日:2022年5月9日
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仙台藩の刑場は、先に仙台琵琶首(現在の花壇)にありましたが、周囲から嫌われ寛文6年(1666年)米ケ袋に移り、元禄3年(1690年)に、郊外の七北田へ移されました。以後178年間続き、約7,000人もの罪人が処刑されたと伝えられています。
土地ではお仕置場と呼ばれ、凡下・百姓・町人など一般庶民層や武士でも獄門になると凡下に格下げして処刑されました。刑罰は斬首・磔(はりつけ)・火焙(ひあぶり)・獄門(さらし首)などがあり、刑死者は葬儀も墓碑も立てることも許されませんでした。
延享3年(1746年)五代藩主伊達吉村公夫人の長松院が処刑された者を憐れんで、刑場の南側に河南堂、北側に河北堂を建てました。涅槃画像と観音像を本尊とし、常念仏堂として処刑者をとむらいました。河南堂には「抜苦(ばっく)」、河北堂には「与楽(よらく)」の扁額を掲げ、刑執行の都度洞雲寺より派遣された寺僧が読教供養したといわれています。
〈囚人 お仕置きまでの道〉
当時、死罪が決まると見せしめに、仙台の片平丁から堤町まで各町の寺院を引き廻され、二軒茶屋に至っては刑者の所望で、甘酒を飲むことを許されました。また、青笹不動尊前から鷺ヶ森を経て、仙台川にかかる「暗角橋(くらすみのはし)」で馬から下ろされ、家族との最後の別れとなりあとは目を隠されて歩いて刑場に向います。刑場手前の清水で最後の水を飲み、刑が執行されたそうです。
女川飯田口説(おながわはんだくどき)
宝暦の頃、相思相愛の男女が極刑となる哀しい話が起きました。
於節の夫 飯田能登が多くの女を手なずけ酒池肉林の有様に、孤独になる於節。それに同情した能登守の家来の喜右ヱ門は於節と結ばれ、誤って能登を死にいたらしめ、岩手県方面まで駆け落ちしたが追手に捕われ、主殺し駆け落ちの大罪人となりました。
喜右ヱ門は武家を剥奪され、磔(はりつけ)となり、また、於節は打首となりました。
〈於節(おせつ)地蔵〉
於節の刑執行後、誰が立てたか於節の供養塔が立てられ、今でも絶えることなく香花が供えられています。供養塔は仙台藩刑場跡にあります。
〈松葉の曼荼羅〉
於節は獄中で犯した罪を悔い、少しでも罪を償おうと、自分の帯を解き枯松葉を針の代わりとして阿弥陀如来を縫い上げ、市中引き回しの途中、遍照寺前の閻魔堂に投げ込んだといわれています。長さ3尺幅1尺余りの絹地に茶の萌黄色の絹糸で阿弥陀如来像を刺繍したもので、これを「松葉の曼陀羅」といいます。
現在、軸物に表装されて善導寺に保存されています。
地蔵 |
於節地蔵 |
仙台藩刑場跡 泉区七北田字杉の田地内
地下鉄八乙女駅から徒歩10分
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