Cさん・14歳・太白区(聞き取りに応じていただいた方:家族(母))
- 災害の種類:地震(東日本大震災)
- 季節・天候:平成23年3月11日(曇り〜雪)
- 被災した場所:自宅
<災害当時について>
- お住まい:太白区
- 本人の年齢:14歳
- 医療的ケアの内容:吸引・ネブライザー・経管栄養(胃ろう)
- 家族構成:本人、母
- 家庭の状況:母と本人の二人で生活。当時は祖母が近くに住んでいて、あまり頼んではいなかったが必要な時は本人の見守りをしてもらっていた。母が子供の頃からではあるが、祖母の手伝いは必要な状況だった。
〇要約
東日本大震災時、Cさんと母親は自宅で過ごし、水、薬、栄養補給品の備蓄が役立った。しかし、食料やガソリンの確保は困難で、遠くの友人からの支援が大きく助けとなった。災害後、自身で備蓄を増やし、吸引器の劣化を確認し、薬や栄養補給品を常に持ち歩くようになった。また、避難所や電源供給地点を知るアプリの開発や、普段の生活の延長に災害時の施設があることの重要性を認識した。発電機の必要性も増しているが、購入やメンテナンスは困難である。
<発災時の被害状況>
集合住宅の5階
- 二人とも自宅にいて(学校は早く終わる日かお休みだった)、母は仕事に行く準備をしていた。
- 大きな家具は転倒防止の対策をしていたので、倒れることはなかった。
- 冷蔵庫など大きなものは部屋の半分くらいは移動していたので、中の物は倒れていた。
- ライフラインはすべて止まった。
<発災時の状況・どのタイミングでどのように動きましたか?>
●発災直後~72時間(3日後)までの状況
- 備蓄はしていたが何をするにも水が必要と考えて、様子を見に来てくれた祖母に、近くのお店で水を買ってきてもらえるようにお願いした。
- 避難するには持ち物もかなりの量になるため、一人では無理。ガソリンも残り少なかったこともあり、家にいた方が良いと思った。本人が小2の時に耐震工事をしていたので、崩れることはないという安心感もあった。
- 仮に、その時手伝ってくれる人がいても避難はしなかったと思う。どこに行っても電気・ガスが止まっていたし、家にいても変わらないこと、当時は人工呼吸器も使っておらず、吸引も頻回でなかったことも要因。電気がなければ命に関わる状況であれば考えたと思う。
●72時間(3日後)~1週間程度の状況
- 本人の水・栄養・薬は1か月分くらいあったが、母の食べるものがほぼなかった。冷凍庫にあったお肉などをカセットコンロを使って焼いて食べた後は、何もなくなって乾燥パスタを口に入れていた。町内の集会所で備蓄物配布していたが、余震もあって本人をおいていけない、連れて行ってもその後必死な思いで(5階まで)帰らないといけないので、取りに行けなかった。持ってきてくれることもなかった。
- ガソリンが少なかったし、上記と同じ理由でスーパー・ガソリンの列には並べなかった。
- 発災4日くらいで他県の友達がガソリンとバナナなど果物を持ってきてくれたり、食料・ガソリンの買い出しを手伝ってくれた。
- 主治医から電話での安否確認と薬の処方について連絡があった。ガソリンが入ってから、病院に薬をもらいに行った。
●1週間~1か月程度の状況
- 混乱しているから連絡を返せていなかったが、いろいろな人から連絡は入っていた。他県の友達が発災18日、物流が再開してすぐ位に物資を送ってくれた。大きな段ボールで二つ、近所の人からも集めてパンなど調理のいらないものや、お菓子などを送ってくれた。甘い物とかも食べたくなっていた頃でこんなにたくさん、とびっくりした。
- 発災2週間後くらいには仕事に行っている。
●1か月以降~(3か月くらいまで)の状況
- 1か月くらいでだいぶ落ち着いた。ガスが出るまで1か月、電気は1週間くらいで復旧した。
- 普段の生活に戻るまで1か月以上かかったと思う。
<事前の備え>
●ハザードマップ等で自宅の危険を確認していましたか?
- いいえ
- ハザードマップを見てはいないが、以前水害で自宅周辺が水浸しになり、車が水没したことがあるので、大雨の時は心配しながら外を見ている。
●自宅等で普段から準備していたもの、ことはありますか?
- 医療的ケアに関すること、水・薬・栄養は普段から1か月分位多く残していた。
●支援者や地域の人と準備していたことはありますか?
- 町内会で備蓄をしていたので、毎月二人分のお金を支払っていた。
- 隣の家の方(高齢夫婦)とは普段から挨拶はしていた。震災時安否確認をし、開かなくなったという扉を開ける手伝いに母が行っている。
- 震災時、福祉サービスは利用していなかった。
<振り返ってみて>
●災害を経験したことで新たにしている準備や対策はありますか?
- 町内会の備蓄品に毎月お金を払っていたが、取りに行くことが前提なんだと気づいた時に、取りに行くことができないため、支払いをやめた。その分自身で備蓄するようになった。
- 吸引器について:震災後NPO法人から手動と足踏みの吸引器配布があり、とっておいた。備蓄品確認の時にあることだけは見ていたが、実際に使ってみることはしていなかった。十数年ぶりに今年使ってみたところゴムが劣化し使えなくなっていた。あればよいものではなく、使ってみないとだめだなと思った。手動の吸引器は買い替えている。
- 車に注入のセットと注射器とルートのセットは入れている。忘れたら困るもの、途中で調達ができないものはいろいろなバッグに入れている。
- 出かけた先で被災する可能性もあると人に言われて気づいた。それ以降旅行時、薬は旅行日数の倍は持つようになった。ちょっとした外出の時も薬1週間分持つようになった。栄養も必要分+1本持ち歩いている。吸引器も持たずに出ることもあったが、それはなくなった。
- 知らない土地の避難所や電源を貸してくれるところは分からない。そういう場所が分かるアプリができるといいと思う。
●備えをしていて良かったことや反対にこれは不要だと思ったこと
- 水、栄養、薬があったので、あまり心配になることはなかった。
- 備えていていらない、と思うものは特にない。
- 携帯電話もラジオの手動式充電器があったため困らなかった。
●その他災害時、どんな人のどんな支援が助かった・こういう支援が欲しかった等
- 町内の備蓄品配布は、取りに行くことが前提だった。みんな大変だし混乱もしていたので難しいと思うが、届けてくれるということはなかったし、安否確認なども特になかったと思う。配布されるものを取りに行ってもらえたら助かったと思う。
- 近くの人たちはみんな被災者、遠くに住んでいる友人の方が状況を冷静に見れているのかもしれない。遠くの友人が沢山助けてくれた。ガソリンや食べ物を届けてくれたのは助かった。
- 普段から使っている場所(通所施設など)が福祉避難所になったらいいのになと思う。近くの避難所は小学校だが、行ったとしてもどうにもならない。今は特に人工呼吸器もあるし引越しするくらいの荷物が必要になる。5階から下ろすだけでも大変。普段の生活の延長に災害時の施設があれば普段から預けているものもあるので、必要な物だけ持っていけば良くなる。持っていくものを減らすことができるし、避難できると思うと普段から置いておく物も変わると思う。
- 寒い時期だったからまだよかった。夏だったら避難すると思う。温度が調節できない。あの時期でよかった。
- 備える必要があるけれど備えていられないのは発電機。値段とメンテナンスを考えると簡単に購入できない。今は夜間呼吸器を使っており、今までは無くても生死には関わらない状態だったが、二酸化炭素の排出悪く、今まで以上に呼吸器に頼る機会が増えた。災害の期間が長くなった時に大丈夫かなとは思う。欲しいとはずっと思っているし、補助があれば…と。電気がないと避難しないといけないかもしれない。呼吸器・発電機の必要性は我が家では今までより一段階上がった。避難するとしたら病院しかない。発電機はどんなタイプがいいのかも分からない。ガソリン、カセットコンロがいいのか。容量、どのくらいの時間もつのか。ここにいったら充電できます、みたいなところも近くにあれば…。
★災害を経験していない方に伝えたいこと★
- 薬と栄養と水は備蓄しましょう。
- 沿岸で被災した友人の話で、自宅と車が流された方。栄養も流され、いつもと違う栄養を注入したら下痢をして大変だったよう。流された車を見つけ、車にもいくつか物品を入れていたのでその物品を使うことができた。備蓄しておく物品を分散しておくことも大切だと思った。自宅がだめになった時、代わりの物がないと大変。施設や車など分散しておくことでどれかは使えるという状況を作っておくことも大切。
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