ページID:78452

更新日:2025年1月14日

ここから本文です。

災害時の体験談(ご本人・ご家族)Gさん

Gさん・訪問看護ステーション・看護師

  • 聞き取り日:2024年1月10日
  • 災害の種類:地震(東日本大震災)
  • 季節・天候:曇り~雪
  • 被災した時間:14時46分

<被災当時について>

  • 施設の種類:訪問看護ステーション
  • 医療的ケア児数:A…1名 B…3名くらい(高校生)
  • ケア種別:人工呼吸器・気管切開・酸素療法・吸引・ネブライザー・経管栄養(胃ろう・経鼻経管)
  • 職員状況:A…看護師8名(プロパー、パートあわせて)

       B…看護師12~15名(プロパー、パートあわせて)

※県立支援学校で常勤看護師の雇用が無かった時代なので、当時は支援学校に毎日看護師を派遣していた。

〇要約

東日本大震災時、訪問看護ステーションの看護師は、被災直後から72時間以内に緊急性の高い患者の安否確認を優先し、必要なケアを提供した。ガソリンや清潔保持のための熱湯など、地域の協力を得て対応した。震災後1週間から1か月程度では、ケア時間を調整し、職員の復旧時間を確保。4月には通常の業務に戻った。災害時のマニュアルは存在せず、事前の備えもなかったが、経験から1~2日が大切であると学んだ。

<発災時施設に利用者などはいましたか>

  • いなかった※訪問系サービスのため

<発災時の状況・どのタイミングでどのように動きましたか?>

●発災直後~72時間(3日後)までの状況

【1日目】

  • 発災直後、利用者宅で被災した看護師と移動中に被災した看護師とがいた。事務所は所長と事務の2名のみ。
  • 当時、利用者宅や移動時に被災した際のマニュアルはなかった。そのため、予定通りケアに行く看護師もいたが、多くは一旦事務所に戻ってきていた。
  • ケアに行く選択をした看護師はケア内容的に「行かなきゃいけない」と考えた模様。事業所に戻った看護師は、近所のケースの家族から借りた自転車で安否確認を実施。
  • 安否確認については、全然動けない方や30分ごとの吸引が必要な方など、事業所として緊急性が高い人を優先的に回り、当日中に安否確認が出来ている。また、海の方は距離的に行けなかった。
  • 自転車を利用した理由としては、当時4号バイパスが全く動かなかったことも理由の一つ。
  • 安否確認時に建物からの移動が必要な方については、近所の方に訪問看護師が声を掛けて手伝ってもらうなどしていた。布団店から布団を借りるなどもしている。
  • 吸引が頻回な方には、シリンジで吸引する方法などを家族に伝えるなどし、医療機関に繋がるまでの時間を稼いだ。
  • 子どものケースについては、誰か親はいるだろうということで回らなかった。育児についての困難さよりも、呼吸に関わる分、吸引が必要な方を優先的に回るなど、ケアの必要さを事業所として判断していた。
  • 安否確認は1時間くらいで終わり、その後一旦職員自身の家族の安否確認後、再度事業所に戻ってきている。
  • この時点で津波が来ているとの情報は知らず、21時頃に帰宅してから知った。
  • 後日談にはなるが、海沿いに住んでいた寝たきりの方はエアマットごと消防車に乗せられ運ばれ、小学校の4階まで人力であげられ助かった方がいた。震災関連死はあったが、津波で亡くなった方や職員はいなかった。
  • 震災直後に訪問した方で、公民館などで障害者も受け入れてもらえるなどの情報提供をしたが、最後まで自宅にいた方もいた。その方については、ヘルパーと訪問看護師のどちらかが1日1回は様子を見に行っていた。

【2日目】

  • 前日に安否確認が出来なかった方の安否確認を行う。出勤については、出てこられる看護師が出勤するという形であった。緊急性の無い方の家に訪問した際に、前日にベッドのリクライニングを上げたままだった方がおり、職員が偶然持っていた車のシガーソケットからの変換機を使い、近所の方に延長コードを借りてリクライニングを戻したことがあった。また、津波の情報を元に、危険と予測される地域ヘは訪問はしなかった。

【3日目】

  • もともと事業所の休所日なので休み。

●72時間(3日後)~1週間程度の状況

  • 月曜日(4日目)は通常通り出勤となっていたが、どのように通常に戻すのかという話も出ていた。
  • 呼吸器などのケアが必要な方の訪問は適宜行っており、電力の問題で結局は自力で生活を続けていたが、早い段階で病院に移るなどしていた。在宅酸素の人はその時は特定の医療機関に多く集まっていた記憶がある。
  • ガソリンについては、近所のスタンドの方が裏からこっそり入れてくれて「半分までね」とガソリンを融通してくれたので、3日目以降に燃料に困ることはなかった。
  • 清潔保持の部分では、事業所がプロパンガスだったので、事業所でお湯を沸かしてポットで訪問に持っていき、訪問先で適温にし、清拭などに使っていた。
  • 避難所に避難した人はほとんどいなかった。皆さん大体自宅にいた。
    →家が壊れなかったのが大きいと思われる。
  • 福祉避難所については知らなかったし、知っていたとしても使い方が分からなかった。
  • 出勤状況については、看護師が揃わなかったということはなかった。ただ、職員の子供に関しては、近所の方が見てくれるなどの目に見えない助け合いのお陰で仕事に行くことが出来ていたと思う。

●1週間~1か月程度の状況

  • この頃になると薬のセットだけなどの軽めの方についても、安否確認のため訪問指示の回数より多く訪問をしていた。
    →まだ電気が復旧していない地域は連絡網が回復していなかったため。
  • また、職員の復旧の時間も確保するため、ケア時間をずらすなどして調整し、午後から帰宅できるようにするなどしていた。食料などは自分たちで確保する必要もあった。
  • 特に連携した機関はないが、母体の法人が全国組織の中の一部であったことから、ケアに必要な支援物資などに困ることは無かった。ある医療機関では半分避難所のような状況で炊き出しなどもしていた。ある法人では集めた物資をどう配ったら良いかで困ったと後から聞いた。

<事前の備え>

●ハザードマップ等で施設の危険を確認していましたか?

  • いいえ

●施設等で普段から準備していたもの、ことはありますか?

  • ない、BCP(※)もなし

(※BCP(ビーシーピー):業務継続計画。自然災害や感染症のまん延など不測の事態が発生しても、重要な事業を中断させない、または中断しても可能な限り短い時間で復旧させるための方針、体制、手順等を示した計画のこと)

<振り返ってみて>

●災害を経験したことで新たにしている準備や対策はありますか?

  • 対応マニュアルの準備
  • 安否確認、参集の条件、災害時の動き(二人一組)、持ち出しバッグ。

●関係機関との連携の中で、助かったことや困ったことはありますか?

  • 電話が通じなかったので、連携はすぐには無理であった。
  • 本当にケアなどで支援や調整が必要な方は1~2日が大切だった。
  • 退院時には密に連携をとった。

●備えをしていて良かったことや反対にこれは不要だと思ったこと

  • 備えていなかったのでわからない。

★災害を経験していない方に伝えたいこと★

  • ルールを決めておくことは大事。
  • 災害が起きた時の様々な場面を想像した動き方。
  • 自分や自分の家族が安全でない時は無理して仕事に来ない。
  • 連絡が取れない時にどのように動くか等々

お問い合わせ

健康福祉局北部発達相談支援センター
仙台市泉区泉中央2-24-1
電話番号:022-375-0110 ファクス:022-375-0142

健康福祉局南部発達相談支援センター
仙台市太白区長町南3-1-30
電話番号:仙台市太白区長町南3-1-30
電話番号:022-247-3801 ファクス:022-247-3819


【担当区域】
 青葉区・宮城野区・泉区にお住まいの方⇒健康福祉局北部発達相談支援センター
 若林区・太白区にお住まいの方⇒健康福祉局南部発達相談支援センター